共感のちからを磨くには

共感のちからを磨くには

はじめに

ある有名リアリティ番組に出演していた方が命を落とすという、悲しいできごとがありました。
ニュースになってから出演していた番組を見て、こんなに素敵な方が沢山の誹謗中傷を受けていた、という事実に、非常に胸が痛くなりました。誹謗中傷を受けた側の苦しみを想像できなかったものか、心ない発言をする方の共感力はいったいどれほどあったのか、ということを疑問に思うとともに、悲しく感じました。

企業においても、チームコミュニケーションにおける「共感力」はよく課題としてあがってくるテーマです。メンバーに共感できない上司は、メンバーからの信頼が得られず、部下が離れていったりマネジメントが上手くいかずに苦しくなったりします。

共感する力は、ひとと一緒に生きていく上でとても大切なちからですが、いったいどうしたら身につくのでしょうか。

共感は、同じ気持ちになることではない

共感は、相手の内側(こころの内側)に思いをめぐらせて、「そういうことがあったら、そういう気持ちになるよね」と理解することです。
相手の心の内側に立ったことを想像して、相手になったつもりで理解することです。
逆に言えば、ある強烈な気持ちを表している人に対して、「あれだけこころが動いて(感情的になって)いるのだから、もしかして大変な事情があったのかもしれないな」と出来事や背景に思いをめぐらせることもできるでしょう。

共感は、同じ気持ちになること(=同感)ではありません。
例えば、あなたの友達が「私、Aさんのことがすごく嫌だ。すごく腹が立つ。」と言ったとします。あなたはAさんのことが好きだし、そのように感じたことがなかったので、「どうしてそう思ったの?」と聞きます。すると、友達は「Aさんは私の大事に思っているものを、ぞんざいに扱ったの」と言います。あなた自身は別に大事なものをぞんざいに扱われたわけではないので、腹は立ちませんが、「大事なものをぞんざいに扱われた」ときの怒りや嫌だ、と思う気持ちは理解できます。なので、友達に対して「それは嫌だったね。腹が立ったね。」と友達の気持ちを理解すること。これが共感です。

共感ができるようになるためには

共感ができるようになるためには、自分の気持ちやこころの動きにも自覚的である必要があります。
例えば、悲しいことがあったのに、その気持ちを見ないようにして、「こんな気持ちはなんでもない。毅然と振る舞わなければならない」などと自分の気持ちにも敏感でないようであれば、他の人のこころの動き(気持ち)を理解することも難しいし、他の人のこころの内側に向き合うことも難しいでしょう。

自分の気持ちに自覚的になるには、一人では困難かもしれません。私たちは、悲しいときに「悲しかったね」と慰めてもらった経験、嬉しいとき、楽しいときに一緒に喜んでもらった経験、酷い目にあったときに「それはひどいね!」と一緒に怒ってもらえた経験、そういった誰かに自分の気持ちを理解してもらった(=共感してもらった)経験から、自分の感情に対する理解と調整の能力を発達させます。

SNSなどで批判を繰り返す人は、もしかすると自分の気持ちも誰にもわかってもらえなかった、だから自分の気持ちを適切に処理することができないでいる、だから他の人の気持ちにも共感できずにいる、ということなのかもしれません。
一緒に批判する人がいれば共感されたことになるのではないか、と感じるかもしれませんが、そうではないと思います。批判や中傷という表面的な行動の裏には、もっと根源的な鬱屈した気持ちがあるでしょう。その深いところにある気持ちに共感してもらったとき、理解してもらったと感じるときに、共感力の芽が芽吹き始めるのかもしれません。

そう考えると、人々が共感力を求める社会、共感力が足りない社会は、気持ちを理解してもらった経験が少ない社会、気持ちを大事にされてこなかった社会、そんなふうに言えるのかもしれません。

さいごに

相手の気持ちや背景を想像するには、自分の気持ち(こころの動き)に向き合った経験が必要です。
自分の気持ちと向き合うには、安全に気持ちを扱える、と思えることが重要で、その大きな助けになるのは、一緒に自分の感情に向き合ってくれる誰かがいることです。

共感力を高めたい、と思ったら、まずは自分の気持ちと向き合ってみるところから始めてみてはいかがでしょうか。